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辺野古転覆事故に巻き込まれた生徒たちへの謝罪も無し。

謝らない、同志社

辺野古沖の船舶転覆事故で亡くなった女子生徒の姉が、学校法人同志社の記者会見を前にnoteを公開した。

文章では、亡くなった妹の遺族への謝罪だけでなく、事故に巻き込まれた生徒たちに対しても、先生本人からの謝罪がないという問題だ。

事故で大切な友人を失い、自分自身も恐怖を経験した生徒たち。

その生徒たちが、間違った判断をした先生たちから直接謝ってほしいと願っていたという。

しかし、学校側から返ってきた答えは「できない」だったという。

謝罪には順序がある

お姉さんは、noteの冒頭で次のように書いている。

「検証のない謝罪に、意味はないから」

遺族が求めているのは、形だけの謝罪ではない。

  • 何が起きたのか。
  • どうして事故を防げなかったのか。
  • どのような判断が重なったのか。
  • 何が間違っていたのか。

まず事実を調べ、問題点を明らかにし、そのうえで謝罪するべきだという考えだ。

これは非常に重要な指摘だと思います。

謝罪文を読み上げるだけなら、誰にでもできる。しかし、何が悪かったのかを認めず、責任の所在も曖昧なままでは、再発防止にもつながらない。

学校としては謝るが、個人としては謝れない?

お姉さんによると、学校に対して何度か教職員個人から生徒たちへ謝罪してほしいとお願いしたものの、返ってきた回答は次のようなものだったという。

  • 学校としては謝るが、個人としては謝れない。
  • 刑事告訴を受けているので。
  • 罪の軽重をつけることになる。
  • 個人についている弁護士に止められている。
  • 現在は体調を崩しているので。

もちろん、刑事告訴されている以上、個人が不用意な発言を避けたいという事情は理解できる。

弁護士が法的な責任に関わる発言を控えるよう助言することもあるだろう。

また、体調を崩している教職員について、無理に謝罪を求めるべきではない。お姉さん自身も、回復を心から願っていると記している。

しかし、ここで考えたいのは、法的責任を認めることと、被害を受けた生徒たちに向き合うことは別ではないか、という点です。

刑事告訴されているからといって、被害を受けた生徒たちの気持ちを受け止めることまでできないのだろうか。組織の前に人としての対応は必要無いのでしょうか?

学校全体で頭を下げれば済むのか

8月30日の保護者説明会では、前校長が謝罪文を読み上げ、その後、教職員全員が「教職員全体」として頭を下げたという。

お姉さんは、誰か一人に責任がのしかからないようにとの判断だったと聞いている。

しかし、学校全体として謝罪することと、実際に判断に関わった本人が自分の行動を振り返ることは違う。

組織として責任を認めることは必要だ。

一方で、個人の判断に問題があったのであれば、その本人が何を考え、なぜその判断をしたのかを説明することも重要になる。

全員で頭を下げるだけでは、誰が何を間違えたのかが見えなくなってしまう。

お姉さんが疑問を感じているのは、まさにこの部分だろう。

また、検証を十分にしての謝罪であれば受け入れられる可能性もあるが、先のお父様のnoteにあるように学校もヘリ協も十分ではない対応でした。

前校長が記者会見に出ないことへの疑問

今回のお姉さんのnoteでは、前校長についても厳しい指摘がある。

研修旅行を承認し、事故後の対応を指揮したのは西田前校長だったという。

それにもかかわらず、記者会見に出席するのは新しい校長だと聞いている。

当然、疑問が生じる。

  • 研修旅行を承認した際、何を確認したのか。
  • 現地の安全性について、どのような判断をしたのか。
  • 事故後、保護者への対応をどのように指揮したのか。
  • 第三者委員会の報告をどう受け止めているのか。

こうした質問は、当時の責任者である前校長にしか答えられない部分もあるはずだ。

前校長が会見に出席しないことだけで説明責任を放棄したとは断定できないが、法人として当時の判断を明らかにする必要はある。

役職を離れたからといって、過去の判断について説明する必要までなくなるわけではない。

子どもたちは大人の姿を見ている

今回のお姉さんの文章で、最も印象に残るのは次の指摘だ。

「悪いことをしたら謝りなさい」と子どもたちに教えてきた大人たちが、自分たちが謝る番になると「個人としては謝れない」と言う。

子どもたちは、そんな大人の姿から何を学ぶのだろうか。

教育とは、勉強を教えるだけではない。

間違えたときに認めること、相手の気持ちを考えること、そして自分の行動に責任を持つことも教育の一部だ。

法的な責任の確定を待つことと、被害を受けた生徒たちに誠実に向き合うことは両立できるはずだ。

大好きだった母校だからこそ

お姉さんは同志社国際の卒業生でもある。

大好きだった母校であり、妹が通った学校だからこそ、悔しくて悲しいと書いている。

学校を憎んでいるわけではない。

だからこそ、間違えたときには、まっすぐ謝れる学校であってほしいという。

今回の事故では、第三者特別調査委員会の報告書によって、学校法人の安全配慮義務違反が指摘されている。

学校側には、単に謝罪文を発表するだけでなく、何が問題だったのかを認め、責任ある対応と再発防止策を示すことが求められる。

そして、事故に巻き込まれた生徒たちが今も苦しんでいるのであれば、その声に耳を傾けることも忘れてはならない。

まとめ

今回のnoteを読んで感じるのは、遺族が求めているのは、形式的な謝罪ではないということだ。

亡くなった妹さんには、もう謝罪の言葉を届けることはできない。

だからこそ、同じ船に乗っていた生徒たちには、きちんと向き合ってほしい。

学校として謝罪するだけでなく、当時の判断に関わった大人たちが、自分たちの行動をどう受け止めているのか。

そこを曖昧にしてはいけないと思う。

子どもたちには「間違えたら謝りなさい」と教える。では、大人が間違えたときはどうするのか。

それを示すことも、教育者の責任ではないだろうか。

大好きだった母校だからこそ、変わってほしい。

お姉さんの最後の言葉には、学校への怒りだけではなく、母校への期待も込められている。

筆者も辺野古事故については、メディアが消極的では無い、遺族への対応が辛辣過ぎるため追いかけているが、正直残念でならない。保身その一言だろう。

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