玉城デニー知事。辺野古犠牲者遺族のnoteは見てません。
最初に、首長がいろいろな資料元を目にせず、周りの人間が対応することは当然です。
しかし、今回の辺野古転覆事故は直接的に沖縄県の問題として取り上げられており、亡くなった高校生遺族のnoteを見ないのはさすがに問題だと思います。
結局はそれぐらいのことだと認識している、共産圏の考え方なのかもしれません。
車の移動中、10分もあれば読めるし、遺族の意見を知れば知見を広めることも出来ます。
読めるのに。「見てはいないが、聞いてはいる」という玉城デニー知事の境界線が左側にあるのは間違いないと思います。
記者会見での『見てはいない』という違和感
2026年6月2日、沖縄県の玉城デニー知事の記者会見で、ある重要なやり取りがありました。
辺野古沖でのボート転覆事故で亡くなった同志社国際高校の武石知華さん(当時17歳)。そのお父親が5月31日にネットの『note』に投稿した、知事への公開質問についての質問です。
記者からこのnoteについて問われた玉城知事は、こう答えました。
「見てはいないけども、そういうようなお話がある、質問があるとは聞いている」
移動中の10分もあればスマホで読める内容です。自身の政治生命の根幹である「辺野古」の現場で、未来ある高校生の命が失われた。その遺族が発した切実な問いに対し、行政のトップが「直接目を通していない(周囲からレクチャーは受けた)」と平然と答えるその姿勢に、まずは強い違和感を抱かざるを得ません。
遺族がnoteで投げかけた「本当の問い」
では、お父親はnoteで何を問いかけたのでしょうか。それは感情的な非難ではなく、あまりにも論理的で、現在の沖縄が抱える「平和教育の偏り」を突くものでした。
文部科学省が同校の学習内容について「政治的中立性に違反する」と判断した際、玉城知事は5月25日に「踏み込みすぎだ」「沖縄の平和教育が偏向していることはない」と色をなして反論していました。
これに対し、お父親はnoteで具体的な実体験を明かします。
かつて同校の沖縄研修旅行では、地元の普天間高校の生徒との交流プログラムがあり、生徒たちは文集に「基地の近くで暮らす同世代から、挙げきれないほどのさまざまな意見を聞いた」と書き残していたそうです。(note内記事)
しかしその後、プログラムは縮小・廃止。お父親はこう指摘します。
> 「基地反対とは異なる視点を生徒に提供しない内容に変遷したことは確かだ」
その上で、知事に対し、もし辺野古移設を平和教育の題材にするならば「どのような取り上げ方とコース設計を推奨するか(どうすれば中立と言えるのか)」と、具体的な見解をただしたのです。
なぜ知事は正面から答えないのか
産経新聞の記者がその場でこの文面を読み上げ、改めて見解を迫りました。しかし、玉城知事の回答は以下のようなものでした。
> 「この内容がいいとか、この内容が良くないという表現は控えたいが、幅広く子供たちが学び、考え、いろいろと話し合いをしながら、教育の本質的な部分をしっかりと自分たちで学ぶことができる、そういうプログラムを検討されるのが望ましい」
「偏向していない」と大見得を切ったにもかかわらず、遺族から「では、どうすれば多角的な視点を持った中立なコースになるのか」と逆質問されると、具体論には一切踏み込まず、官僚的な一般論・抽象論ではぐらかしたのです。
「内容の良し悪しの表現は控える」という言葉は、裏を返せば、遺族が指摘した「基地反対以外の視点を排除している」という不都合な現実を否定できなかった、ということではないでしょうか。
多角的な視点こそが本当の学び
「辺野古反対」という旗印を守るためなら、その足元で起きた犠牲者の遺族の言葉すら、直接スマホで読むこともしない。そして、突きつけられた「教育の偏り」という本質的な問いからは、一般論の壁に隠れて逃げ出す。
平和教育とは、特定の政治思想や運動の正当性を子供たちに植え付けるためのものではありません。賛成、反対、そしてその間で苦悩する地元の声など、グラデーションのある「多様な視点」に触れ、子供たち自身に考えさせることこそが、教育基本法のいう政治的中立であり、本質的な学びのはずです。
遺族のnoteから目を背けた知事の姿は、現在の沖縄県政が抱える、ある種の「思考停止」と「不誠実さ」を雄弁に物語っているように思えてなりません。
また、沖縄タイムス、これを引用してる?共同通信は、見てないことには一切触れておらず、批判にならないところだけを記事にしてます。もちろん大手はスルーです。
#辺野古
#平和教育
#玉城デニー








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